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首里織について

【首里の織物】


 14世紀から19世紀まで続いた琉球王国の王都として栄えた首里は、王族や士族階級が居住し政治文化の中心地にふさわしく多彩な染織文化が開花した。王府時代、衣料は主に各家庭で作られた。首里の女性にとって 機織はたおりは最も重要な教養とされ優れた織物を織ることが求められた。王妃をはじめ上流階級や士族の女性を中心に代々織り継がれてきたのが、「首里の織物」である。

 首里の織物は、国や県から無形文化財としての認定を受けている、首里花織・道屯織・花倉織・ 諸取切むるどぅっちり手縞てぃじま煮綛芭蕉にーがしばさー・花織手巾てぃさーじ の七種に代表されるように、一地域に伝承された織物の多種多様さにおいて他に例がないといわれている。

  このような染織文化が築かれた背景には、東アジアの海上に位置し、14〜15世紀からの海外交易や中国、日本、東南アジアの国々との歴史的関りがあげられる。琉球王府は、織物政策に力を注ぎ、積極的に海外から織物の技法や原材料を導入した。日本で唯一亜熱帯気候に属する沖縄は、大小160の美しい珊瑚礁の島々で成り立ち、高温多湿で染織物の原料になる植物などが、もともと豊富な地域でもある。

  15世紀頃には、インドを源流とする絣技法が、東南アジアを経由して伝えられたと推察される。沖縄独自の「手結い絣」の手法も考案され、沖縄の風土を反映した自然や動植物のモチーフ等身近な生活の中から数多くの絣模様が織り出された。沖縄の絣は、日本の絣産地にも影響を与え日本の絣のルーツのひとつとされている。
絣の伝来と同じ頃、東南アジアから南方系の紋織り技法も伝来したが、王府は17世紀以後2度にわたり中国から高度な紋織等の技法を導入した。絣が地方でも織られたのに対し、中国伝来の紋織技法は首里の王族、貴族、士族階級の専用とされたが、明治の廃藩置県による位階制度の廃止後、地方へ伝えられた。

  技法とともに繊維や染料も移入された。古くは自生する苧麻と芭蕉の繊維が用いられたが、交易によって木綿、絹、桐板とぅんばんが日本や中国から輸入された。これらの天然繊維と絣・紋織りの二大技法の組み合わせによって、首里の織物は大きく発展した。首里の織物の特徴は、鮮やかな色彩である。青系は琉球藍、黄色系はふくこん など多種の植物で染められ、鮮やかな黄色は中国の影響を受けて王家や貴族専用の色とされた。

  現在の首里の織物は、人間国宝(宮平初子)を筆頭に分業体制を取らず、全工程を一貫した手仕事で行う少量多品種の生産形態を守り続けている。伝統技法の継承と創作展開を続けてきた首里の織物の需要は多く、着物や帯は県内外で高い評価を受けている。

  美しいサンゴ礁の海や自然を求め、現在では年間500万人以上の観光客が訪れている。これら観光客の要望に応えるため、インテリア用品や装飾品等時代に即した新製品開発にも、多方面から取り組んでいる。

沖縄県立芸術大学教授 ルバース・ミヤヒラ吟子